ショパンコンクール優勝者リサイタル

ショパンコンクール優勝者リサイタルはパリでは一日だけ、それもオーケストラなしの独奏会だ。
コンサート会場となったのは、今年の1月にフィルハーモニー・ド・パリができるまで
パリ管弦楽団の本拠地だったサル・プレイエルと並ぶ老舗、サル・ガヴォー。
ロン・ティボー国際音楽コンクールの会場で、音響が良いことで有名だ。

コンサートホールの玄関に今夜の催し物の案内は皆無。

看板もなにもなく、受付ホールの壁にそっけなく
「コンサート チョ・ソンジン」とだけプリント
された紙が一枚だけ貼られている。

サル・ガヴォーでショパコン優勝者リサイタル開催とだけの告知では立て看板も作れず、事前に曲目も出演者も明示できなかったのだろう。
優勝者が決定してから行くかどうか決めようと思っていた人たちも多かったのか、
当日券には列ができていた。

聴衆の2割は東洋人。当然のことながら、その大半は韓国人だろう。
本国ではノーベル賞以上の快挙と騒がれているが、パリ在住の韓国人にとっては
見逃せないイベントになったはずだ。

中央のパイプオルガンへの照明はピンク。

とらは着物で行った。

想定していなかったが、図らずも韓国人でなく
私は日本人ヨ、と主張した形となった。



客席案内の女性がペラ2つ折りのプログラムを2ユーロで売っていたので購入。
演奏曲は第一次予選で弾いたノクターン、二次予選で弾いた葬送行進曲付き
ソナタ、三次予選で弾いたスケルツォ、休憩を挟んで三次予選で弾いた24の
前奏曲
チョ・ソンジンの生演奏を聴くのは10月14日の三次予選以来である。
彼はそれから10月18日の決勝に進み、優勝者コンサートをワルシャワポーランド各地で行い、11月からのお披露目コンサートはまずイギリスで始まり、そして今夜のパリでのリサイタル、と目の回るような疾風怒涛の日々を過ごしてきていたのだ。
その間我々は19日にパリに着いて、毎日のんきな日々を送っていた。

ソナタはちょっと物足りなかったが、2回目に聞いた24の前奏曲は予選の時より
余裕が感じられ素晴らしい出来栄えだった。

万雷の拍手とブラボーの声援、チョ・ソンジンも嬉しそう。
彼はパリ在住、友人、知人とか先生とかも来ているのだろう。右手2〜3階席の
方へ何度も目線を送っていた。

アンコール曲に入る。
まず、英雄ポロネーズ、ユーチューブで聞いた優勝者コンサートのアンコール曲でもあった。
ポロネーズ賞をこれで取った彼にとっては必須の選択だろう。
また万雷の拍手
続いてのアンコール曲はノクターン20番、映画「戦場のピアニスト」で使われていた曲である。
繊細なメロディがチョ・ソンジンの持ち味にぴったり。映画の演奏より良かった。
また万雷の拍手
このまま、拍手、ショパン、拍手、ショパンと一晩中聞いていたい気持ちである。
しかしいくら若いとは言え、またピアニストの卵として研鑽をつんでいた地、パリでの気持ちの高揚感があるとは言え、時間には限りがある。
最後のアンコール曲は意外なことにショパンではなく、リストの「ラ・カンパネラ」。

技術と芸術性が調和した素晴らしい演奏だった。
最近ではフジコ・ヘミング辻井伸行で聞いたことがあるが、全然別の曲かと
思われるくらいすごい。
この人の演奏をこれからも聞き続けることができる幸せをつくづく感じた。
まだ聞いていないショパンエチュード、ワルツ、ショパンだけでなく、モーツアルトも聞きたい。

これからの彼の予定は東京、大阪、モスクワ、ニューヨークと続くらしいが、2月2日のソウル凱旋公演まではオール・ショパンだろう。
とりあえず、NHKホールでの11月20日のN響との共演の切符は抑えた。(とら)

ぶらぶら歩き

今日は大家がタオルとシーツの交換のため午前中に踏み込んでくる予定だ。
とらはサッサと、どこかへ出かけた。
シーツの交換になど立ち合いたくないので我も当てもなくぶらぶら歩きに出かけた。
余談だが、毎日あちこち犬のように歩き回っている。
カネがかからなくて良い、との評判だ。

まずアパートの傍の小公園の紅葉の下を抜け、

リュクサンプール庭園へ。

泉水に鎮座するギリシャ神話をモチーフにした石像や

1953年デモで亡くなった学生を痛むモニュメントを見ながら

黄葉も楽しみながら

公園を抜けリュクサンプール美術館へ。

この美術館には常設展示はなく、
企画展のみ。
6ユーロと安いので入る。


今回の展示会は、18世紀後半に活躍したロココ美術のフランス人画家、
ジャン・オノレ・フラゴナール
貴族の邸宅に飾る肖像画や下の絵のようなドラマチックな題材で一世を風靡したが、フランス革命の勃発で貴族と共に没落していった。

題名は「Verrou 閂」。
左手で女を抱きながら右手で閂を閉めようとしているキワモノ。
色合いとスポットライト的な光の当たり方が劇的ではある。

「Fontane D'Amour 愛の泉」 愛をモチーフにした絵が多かったが他は割愛。

美術館の前の小道を北へ進むと突然サン・シュルピス教会へ出た。
パリは道が平行していないので、思ってもいない場所に出る驚きがままある。

そのままオデオンの方へ行くと帰りが遠くなるのでまたリュクサンプール宮殿の
裏側、上院議会の方へと戻り、

近くのカフェで一休みして読書。
今回の旅行用に電子ブックに小説を10冊入れてきている。

そろそろ昼時。パンテオンの近くに昼定食でおかずを選べる和食の店があったことを思い出し暫く探すが発見できず。後で知ったのだが既に閉店していた。

仕方がないのでそのまま丘を下り、サンジェルマン大通り沿いモベール広場の
ベトナム料理店へ。

サイゴンビール(5ユーロ)で喉を潤し

余談だがサイゴンは昨日飲んだタイやラオスビールより
甘みが少なくグッド

汁そば(米粉のフォー)は12ユーロ

今日の費えはカフェ3ユーロ(実費は2.5なれどチップ込)も入れて
合計26ユーロ+帰りのバス代のカルネ、でありました。(いの)

プチパレ 国芳展

日本にいた時、日経新聞に「パリで国芳展開催」と報じられていた。
そのことをなんとなく覚えていた程度だったが、プチパレでやっていると知って
行く気になった。

プチパレは好きだ。建物が好きだ。サイズがいい。
玄関もいい。
常設展を観るだけなら無料というのはなおいい!


入った大ホールの左手が常設展、迎えてくれるのがこの彫像。
うなだれているかの様に見えるたおやかな姿形が好きだ。
実は足元に連れている猿を見ているのだが、全体像よりこのカットが
気に入っている。

彫刻像と、有名な絵が一緒に展示されているのもいい。

その他のおなじみの絵画をさっと見て歩き、




10ユーロを払い特別展「浮世絵の鬼才 国芳」へ。

鬼才とした所以は、風景や美人画にとどまらず多彩な分野の題材を、時にはユーモラスに、時には幕末の政情への
暗喩的批判も織り込んだ浮世絵師という意味だろうか。

よくこれだけ集めた、と感心する。その一端を紹介すると;






国芳はネコ好きだったそうだ。




佃島の風景


これでお終い、と思っていたら浮世絵版画と対照的な
西洋の幻想的版画も展示していた。
この辺がこちらの企画展の凄いところだ。


米 紹介する下記3点の題名は個人的翻訳に過ぎないことをお断りしておきます。

フュースリー 「魔術師たち」 1813年 エッチング

ゴヤ 「カプリッチョ(狂騒曲)」 1799年 エッチング

ルドン 「夢の中」 1879年 リトグラフ

大満足して帰途につく。マイヨールの裸婦像がお見送り。(いの)

アパートでの自炊

ワルシャワとパリでアパートを借りて自炊するために、日本から持って行ったものは;
1)包丁:国内旅行でも自炊のときは必ずよく切れる小さな包丁を持っていく。
2)折り畳み式サラダ水切りボール: 生野菜を洗ってから水切りするのに必須。
3)灰汁すくい 4)ジャガイモの皮むき 5)キッチンタイマー 6)小さなシャモジ
7)サランラップ: ラップ類はどこでも買えるが、使いやすさはこれが一番。日本から持っていく価値はある。

ワルシャワの台所は立派、きれい、電子レンジもあった。

パリは旧式な台所、洗い場は洗面所ぐらいの大きさだし、電子レンジもない。
しかしなぜか食器洗い機は大きなスペースを占めている。
食器は機械に頼るほどの分量はない。

鍋、食器、包丁類など備品をチェックすると、どちらの台所も例えば、お皿のサイズに整合性がなかったり、平皿ばかりでラーメン、うどんなど汁もの用のドンブリ形状の器がなかったり、要は品揃えが悪い。
滞在者はヨーグルト、ミルク、パンなど朝食を軽く食べるくらいなのだろうか。
それには十分であるが、せっかくの台所付きのメリットをフルに生かしているとは言えないと思う。

とらのようにステーキを焼こうと思う人はあまりいないのかもしれない。

しかし立派な台所のワルシャワで用意した夕食は:
トマト、キュウリ、玉ねぎのサラダやパスタ入りサラダ

パック惣菜、鶏肉の煮込みに
赤カブの酢漬けや


グーラッシュ風煮込みとピクルスを切ったもの。


ほとんど買って来たものを並べただけである。
食材に力がなく料理しようという意欲が沸かなかった。

ポーランドはビールが味、アルコール度数ともに多彩。
ビールばかり飲んでいた。



パリでもそんなに凝ったものは作らなかったが、ほとんど毎日作っていたのは
ボールいっぱいのサラダ。



サラダ野菜が品質、種類ともにワルシャワはもとより東京よりもけた違いにいい。
イエナのマーケットで有名八百屋チボーさんの店で仕入れていた。

ハムはレンヌの青空市のがお気に入り。

塊から希望の厚さに切り出してもらう。



時には頑張ってポークソテー、旬のセップ茸添えを作ったりしたが、

遂には典型的フランス型夕食になってしまった。
クルミ入りパン

各種チーズ

ペースト

ジャンボンハム

サラダ

欧州では夕食はコールド・ディッシュと聞いて、暖かいものを食べないとはなんて
貧しいのだろうと昔は思っていたが、全然違った。食材が豊かなのだ。

もちろんそれにワイン。

ワインは結局、何本飲んだろう。



気に入ったワインを蔵元や酒屋から調達し、日本への発送はクロネコヤマト
バッチリ頼んだ。

そうそう、たまにはデザートも買いました。

日本からの真空パックのご飯、それと一緒と持ってきた佃煮、フリーズドライの味噌汁の出番はあまりなかった。
和食とはいえキャンプ生活の延長のようなインスタント食品と、新鮮な食材を使った現地の食事、どちらがおいしいかは言うまでもないだろう。
しかしフランス式夕食と同じものを日本で調達しようとすると、
ものすごく高くなるんだろうな…… 
特にワインとチーズとパンは無理ですね。(とら)

とあるエピソード

フランスでは月曜日が日曜日。美術館や商店など多くの店が休む。
ランチを食べに下手に遠出し空振りとなると面倒。
アパートから100M位の近さなのに今までいったことがなく、店の名が奇抜なため
気になっていた店をのぞくと営業していた。
店の名は「南西地方の宿屋の親父、パパ」という。
看板のバスク風の帽子をかぶったのが髭面パパ。

けっこう客の入りがいい。

店の向いはモンパルナス墓地。

生ハムのサラダと鴨のグラタン、それにオムレツを、と注文すると、ダメダメ
多過ぎる、オムレツはやめな、とは髭の親父ならぬ若い兄ちゃん店員のアドバイス
とらはオムレツが食べたかったのに、と不満そうだったが言い返す語学力がないので仕方がない。

出てきたのはたっぷり2人前はありそうな鍋に熱々のチーズたっぷりの一品。

割ってみると底まで全部ジャガイモとチーズのミルフィーユ。鴨はてっぺんに鎮座。

とらのサラダもハムや野菜はお愛想程度で、掘れども掘れどもジャガイモばかり。
これじゃポテトサラダと言って欲しい、とブツブツ。

二人とも、当分イモは見たくない、と食傷気味で店を後にした。

満腹なので上を向きながら戻ると、我がアパートの壁上方に銘板が貼ってあることに初めて気付いた。


「ここにレジョン・ドヌール勲章の飛行士マリーズ・バスティエが住んでいた」と
刻まれている。


このアパートに偉人が住んでいたことを知り素直に感激。
調べると彼女はモンパルナス墓地に葬られていることが分かり、さっそく腹ごなしを兼ね墓探しに出掛けた。


枯れ葉の最盛期、落ち葉は車道に掃き出され、車がまき散らす。

最近午後が快晴の日が続いている。

墓は簡単に特定できた。墓地正門からの道の左側にあった。

マリーズ・バスティエは1930年代に活躍した女性飛行士だった。
滞空時間、飛行距離、最短時間での南大西洋単独横断などの記録を持つ。
仏空軍で大尉にまで昇りレジョンドヌール勲章を授かったが、1952年リヨンで
離陸時の事故で死亡。

切手にもなったヒロインだった。


時は違えど同じ空間を共有した人の墓参りができ、ますますこの墓地が
好きになってきました。(いの)

以下3枚はその時のスナップです。

「愛の妙薬」初日

ショパンコンクールの次に今回の旅行で楽しみにしていたのはバスティーユオペラ座での、ロベルト・アラーニャ主演の「愛の妙薬」。日本で初日を予約しておいた。
アラーニャは今一番充実しているフランスのテノール。前回のパリ滞在の頃はパリ
公演がなかったので、全く知らなかった歌手だったが、帰国してからメトロポリタン
オペラの映画版、ライブビューイングで「アイーダ」「トスカ」などを次々と観て、
その太陽のようと称せられる明るい歌声と軽い身の動き、演技力に惹かれ、今年の
2月ニューヨークのメトロポリタン歌劇場まで「カルメン」を見に行った。

地下鉄から階段を登るとバスティーユ広場。

その真ん中にそびえる革命記念柱。


広場に面する、3年ぶりのパリオペラ座。

席は3階のプレミア・バルコン、前から2列目の好位置。
どんどん人が入ってくる、満席だ。

オペラはストーリーが分からないと辛い。歌詞のディーテルがあればなおいい。
メットオペラを録画したディスクを日本から持参していた。パリでゆっくり見て予習と思っていたところ、アパートのはDVDでブルーレイの再生はできなかった。
ネットで日本語対訳を探したが44ページにもなり、とても印刷できない。自力で
シノップスを作って持って行ったが、案ずるより産むはやすし、なんと前回には
なかった英語の字幕ができていた。

今回の緞帳?は、インチキ薬売りドゥルカマーラの商品宣伝のチラシをアレンジした奇抜なもの。その前面にぶら下がって見えるのが以前にはなかった字幕パネルで、フランス語と英語が同時表記される。

ドニゼッティ作曲のこのオペラは19世紀のバスク地方の村を舞台にした楽しい
喜劇。今回の舞台の衣装、装置は現代風。
美しい農場主の娘アディーナに恋する純情な村の農夫ネモリーノ(=アラーニャ)。

一幕一場でアディーナは「トリスタンとイゾルデ」を朗読し、物語のような「愛の妙薬」があったらなと歌う。そこに現れたベルコーレ軍曹がアディーナに求愛、アディーナは相手にしない。これに刺激されたネモリーノもアディーナに求愛するが、軽くあしらわれる。
二場でインチキ薬売りのドゥルカマーラが登場、弁舌巧みに村人にインチキ薬を売りまくる。ネモリーノが物語にあるような「愛の妙薬」が欲しいと頼むと、安いボルドー
ワインを売りつける。ワインを飲んで陽気になったネモリーノの横柄な態度に気を悪くしたアディーナはあてつけにベルコーレのプロポーズを受け入れてしまう。

第二幕は結婚式の当日。追加の「愛の妙薬」をドゥルカマーラから手に入れたネモリーノは酔っ払い始めるが、なぜか急に村の娘たちにモテモテに。実はネモリーノの伯父が死んで遺産が転がり込み急に金持ちになったからなのだが、まだネモリーノ本人もアディーナもこのニュースを知らない。アディーナはネモリーノの本心を知り、ネモリーノもまたアディーナの愛を確かめる。「愛の妙薬」は恋愛に効くだけでなく、
金持ちになるという効能もあると、インチキ宣伝するドゥルカマーラ。村人は争って
安いボルドーワインを買い求め、ドゥルカマーラは歓声に送られて村を去っていく。

ドニゼッティの代表作は悲劇「ランメルモールのルチア」や、歴史もの「アンナ・
ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」など荘重なものもあるが、この「愛の妙薬」や
連隊の娘」など軽い喜劇の方が楽しめる。



とらは着物、幕間のホワイエ、初日のためかいつもより人々の服装がはなやか。

カーテンコールは万雷の拍手。アラーニャの出来栄えは素晴らしく、もう50過ぎの
はずだが、若々しく純情青年を演じていた。
ヒロイン、アディーナを演じたのは、だいぶ歳の差のある現在の妻、アレクサンドラ・
クルザク。初めて聞いたが澄んだ声が美しいソプラノ。
第一場では緊張からかオーケストラに負けていたが、夫のサポートにより?第二場
からは落ち着き声量を取り戻しての熱演だった。

 
終了は10時半、オペラとしては短いほうだ。
この日の夕食は自宅でハムとチーズ、野菜にパン、スープと決めていたので、
まっすぐ帰宅した。(とら)

朝の散歩コース

ともかく日の出が遅い。冬時間になったのに、8時過ぎにようやく明るくなり始める。
従ってなんだかんだで散歩に出るのは9時半を過ぎた頃だ。
それでもルネコティ通りのプラタナス並木はまだぼんやりして陽が廻っていない。

モンスリ公園脇にある当地では珍しい銀杏もすっかり色づいた。

真っ赤な楓の大木からの落ち葉の絨毯と芝生の緑のコントラスト。

今朝の池の端はやや寂しい感じだ。

最初異様に見えたモニュメントも見慣れてきた。

カモメやハトにとって格好の羽根休め場所となっている。

あずま屋の四隅を京都風に切り取ってみました。

大学都市に足を延ばしてみた。

煉瓦の壁と蔦は相性がいい。

広いキャンパスも秋一色。

赤い実と学舎。

RER大学都市はダンフェルロシュローの次の駅。

再びネズミ山公園に戻る頃、雲は一掃され快晴になった。

陽がさし陰影が際立ってきた。

この紅葉もあと数日の命だろう。


まだ11時前だというのにこの日足の長さ。緯度の高さを実感する。

今日のコースで約8km、やっと1万歩。
これで今日も昼飯が旨い。(いの)