アヴィニョン―教皇庁

私にとっては「アヴィニョンの橋の上で」の方が馴染み深いが、世界史的にはこの町は教皇アヴィニョン捕囚で知られている。
西洋史でならったはずだが、このあたりは中世史でも一番つまらないところなので、
よく覚えていない。
そこでローマ教皇の座がアヴィニヨンに移されていた約70年間(1309〜1377年)に何が起こっていたのか調べてみた。

1309 フランス国王フィリップ4世、教皇庁アヴィニョンに移す
1314 テンプル騎士団壊滅、団長ジャック・ド・モレー火刑に
1315 大飢饉
1328 カペー朝の断絶、フィリップ6世、ヴァロワ朝開始
1339〜1453 百年戦争
1348 黒死病(ペスト)の大流行
1358 ジャックリーの乱(農民一揆)
1377 教皇庁ローマに戻る。翌年から教会大分裂(シスマ)時代へ

なかなか事件が多いが、やはり一番はペストの大流行だろう。全ヨーロッパ人口の
3分の1が死んだといわれている。大飢饉のあとの疫病、暗い時代である。
ローマから田舎町アヴィニョンに連れてこられた教皇も不満だったかもしれないが、
立派な宮殿に住んでいた。この教皇クレメンス5世はフランス王フィリップ4世と心を
合わせてテンプル騎士団の財産をねらって、異端の罪を着せて、団長を火刑にした。教皇も王もその1年以内に死亡し、呪いといわれたそうだ。クレメンス5世の前の教皇を憤死させたといわれているフィリップ4世はヤリテでコワモテのオジだが、彼の息子の3人の王が子供を残さず死亡したので、カペー王朝は断絶し、王たちの従兄弟、
ヴァロワ家のフィリップ6世が王位を継承した。男の子3人は30台前半で相次いで
死亡と頼りないが、その妹でイギリス王に嫁いだイザベルは父の血をひいたのか、
すごい女性である。愛人と共謀して夫を殺害し、息子に王位を継がせて傀儡とした。
カペー家直系の姫として、息子のフランス王位継承権を主張、これが百年戦争
原因である。

などと想いを馳せながら、教皇宮殿を見学した。

教皇庁広場 たむろっている観光客と比べるとその巨大さが分かる

教皇宮殿 まるで城塞だ

カテドラル マリアが磔刑のキリストを見下ろしている

教皇宮殿の中庭

教皇枢機卿肖像画

宮殿の中庭で明日から始まる演劇祭の会場設営中

教皇宮殿のテラスから見た教皇庁広場

テラスから見たローヌ川アヴィニョンの橋

橋が途中で途切れているのが分かる。




宮殿の中に、この地方でとれるワインを試飲でき、産地価格で購入できる店があると
聞き、探し回ってやっと見つけたが、試飲サービスはないし値段も高かった。当然
ワインは購入しなかったが、ローヌ川流域のワイナリーを訪ねたいとの思いが残った。(とら)