ペールラシューズ墓地 その四:野中元右衛門

ペールラシューズ墓地に歴史上パリで死んだ最初の日本人とされる野中元右衛門の墓があるという。
早速調べてみると、1867年のパリ万博に派遣されてきた佐賀藩士ということだ。
パリ万博は日本が初めて参加した万博で幕府派遣員には渋沢栄一がいた。佐賀派遣団の団長は日本赤十字社創始者佐野常民。3月9日に長崎を出発した一行は4月28日にスエズに到着、スエズ運河はまだ開通前だったので、陸路アレキサンドリアに向かい、そこからまた船に乗り5月5日にマルセイユに到着。陸路パリへ、パリ到着は5月7日、元右衛門は5月12日に急死。墓には当時日本で使用されていた旧暦の
この日付と、西洋の暦1867年6月16日両方が刻まれている。

私を可愛がってくれていた叔母の戦死した夫が佐賀県人だったことで親近感を持ったのかも知れない。また、私が初めて海外出張した時、準備のため忙しく、飛行機の中で熱をだし、パリで倒れたことがあった。抗生物質を飲んで熱を下げ出張を続けたが、江戸時代だったら死んでいたかもしれない。 元右衛門も出品する有田焼の荷造り
などで、出発前多忙だったに違いない。そのうえ慣れない船旅。到着してからは会場の準備とか、着いた荷物のチェックとか多忙を極めた末に倒れたのだろう。すっかり、元右衛門に同情、肩入れし、墓を洗って、花を捧げることにした。
空のペットボトル2本、スポンジと雑巾を持参、墓地の入口の花屋で菊の鉢植えを
買う。日本では切り花を捧げるのが一般的だが、こちらでは鉢植えも多い。水遣りの
こととか考えると鉢植えの方が合理的ではないだろうか。

元右衛門の墓は墓地の正門から入って右側、5区にある。
坂を登り
更に急な石段を登った
奥の狭い敷地に墓はあった。


水をかけ墓を磨く。小さなこもかぶりの酒が供えてあった。
日本からわざわざ持ってきたのだろうか?
子孫か所縁の人がお墓に参ったのだろう。


墓石には「大日本肥前野中元右衛門之墓」と刻まれている。
Nonaka Motoemon 1812-1867 

墓の後ろには建立者、松尾儀助の名前と、皇紀二千五百三十三年十一月との日付が記されている。
元右衛門の後輩である松尾が1873年のウィーン万博の時パリで墓に詣でたら、
パリ・コミューン瓦解の際の騒乱でペールラシューズ墓地は荒れ果て、元右衛門の墓は壊れていた。そこで、松尾は大理石で現在の墓に立て直した。
元右衛門の死んだ1867年から松尾の渡仏1873年までの5年間、日本では幕府が倒れ、明治維新を迎え、皇紀が採用になった。一方フランスでは普仏戦争で負け、
ナポレオン3世が退位し、パリコミューンの決起と鎮圧があり、第3共和制初代大統領ティエールが解任され、とこれまた大変な激動の時代であった。
やはりペール・ラシューズに墓があるレセップスがスエズ運河を開通させたのは1869年、アジアとヨーロッパの距離は近くなった。

幕末、まったく違った文化圏から来てその礼儀正しさでフランス人を驚かせたという日本人の名を辱めないよう、ペットボトルや汚れた
雑巾などは隣の墓などに捨てず、ゴミ箱までちゃんと運びました。あたりまえか……(とら)