テアトル・オリンピコとグラッパの里

ヴィラ泊の中日、トリエステ観光を考えたが、高速道だけで往復4時間と聞いて断念。
前から行ってみたかったヴィツェンツア の他あと一か所、とフロントに相談すると、
バッサーノ・ディ・グラッパ という、イタリアの蒸留酒グラッパが特産という素晴らしい町があると勧められた。グラッパ好きの我々には最適の観光スポットである。
まずヴィツェンツアへドライブ。高速を使って一時間の距離だ。

この町のオールドタウンは河と城壁で守られ、中世の佇まいが随所に残っており、町自体が世界文化遺産に指定されている。それを知らずに街中に無謀にも車で乗り入れ、迷路に迷い込み駐車にえらい苦労をした。


16世紀の建築家パラーディオの建築物が街中にざっと20か所もある。彼の作風はルネサンス様式として波及し、
ワシントンのホワイトハウスやロンドンのクィーンズハウスが
その代表的なものとして有名だ。


お目当てのオリンピック劇場 Teatro Olimpico は1580年に
パラーディオが設計したがその年に没した。
その後1585年に息子によって完成。


現存する、世界で一番古い室内劇場だ。
舞台はギリシャの古都テーベのイメージ。
多くの彫像達が観客席を見下ろしている。





ロビーの天井に近い壁にはこの劇場の歴史上のイベントが
レリーフで彫られている。

この一枚の壁画にジャポンの文字が読める。

日本の天正遣欧少年使節団が創立間もないこの劇場を訪れた時の記念碑だ。
ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見後ベニスからベローナを廻っているのでその途中ここに立ち寄り歓迎を受けたのだろう。

実は少年使節団ゆかりの劇場というので何か彼らを描いた絵でもあるのか、と期待して来たがそれらしきものは何も見当たらずがっかりしていた。帰り際に遠い天井の壁画群を望遠で撮ったのだが、その中に肉眼では見えなかったジャポンの文字を見つけた時は感激した。

現代の我々にとってすらここは遥か遠いイタリアの古都である。約500年前の若い四人の心中はどんなだったろう。また彼らの帰国後の人生に想いを馳せると胸が痛む。


お昼は、たっぷりの具材をやわらかいパンで巻いた
サンドイッチロール。フランスではお目にかかれないものだ。

40kmほど北上、3時過ぎにブレンタ川に守られたバッサーノ・ディ・グラッパに着く。

遠くにアルプスの白い雪が見える。

旧市街と結ぶ古い橋へ向かう。




古いがしっかりした橋を渡り中世の砦のような旧市街へ。

小高い丘の上に城址がそびえ立つ。


町の中心の広場。

広場には終わったばかりのカーニバルの仮面の飾りが
寂しく風に揺られていた。

言うまでもなく、この町特産のグラッパを二本買い込んでから帰途についた。(いの)

天正遣欧少年使節団は日本ではあまり評価されていないが、日本人による日本紹介の嚆矢で、ヨーロッパに残っている文書にはこの時の様子が多数記録されているという。私が初めてこの少年使節団を知ったのは小学生の時、宝塚歌劇の舞台だった。少年から青年への移り変わり、クリスチャン、ヨーロッパ、帰国後の悲劇に恋愛をちりばめられ、まさしく宝塚の黄金パターンである。中浦ジュリアンが主役で春日野八千代だった。赤毛ものもいいけれど、ぜひ宝塚にはこの舞台を再演してもらいたいものである。1582年に長崎を出発、1590年に長崎に帰港した。

バッサーノ・デル・グラッパ塩野七生の処女作「ルネサンスの女たち」にでてくるベニス貴族の娘でキプロス王妃となったカテリーナ・コルネールが隠棲したアローゾの隣町である。彼女がここにいたのは少年使節団の到着する約100年前、そのころは東西をつなぐのは地中海貿易しかなかったが、この100年で喜望峰を回る航路が開発され、少年使節団はリスボンに到着したのだ。もうベニスは絶頂期を過ぎ、これから衰退期に入っていく。当時も激動の時代だったのだ。(とら)

Vicenza
Bassano di Grappa

PS;これにてベニスの旅はおしまい