日帰り小旅行―ヴェルダン

ヴェルダン情報を検索した。
ウキペディア以外でまとまったものはなんと昭和13年に書かれた野上豊一郎の随筆であった。妻弥生子と一緒にパリから車でヴェルダンを訪問している。もちろんそれ以降、日本の観光客も訪れてはいるのだろうが、かなりレアな場所である。(後で調べたら昭和天皇が皇太子時代に訪れていた。)
出発が遅れたのでヴェルダンに着いたのはすでに12時を過ぎていた。まず腹ごしらえとミューズ河に沿ったテラスのレストランに入る。戦争記念館の住所以外なんの情報もない我らはそばのホテルで町の地図をもらい、ツーリストインフォメーションの場所を聞くと、それはヴェルダン戦死者記念公園のそばにあった。


ヴェルダンは中世都市の面影が残っている。
町の中央を流れるのがミューズ河

異なる軍装の5人の兵士の像 戦死者記念公園の入り口にある。

ツーリストインフォメーションで古戦場地図をもらう。
守るフランス側最前線だったヴェルダン戦争記念館と戦死者共同墓地は車で10分、攻めるドイツ軍側のドイツ兵共同墓地はそこからさらに北に約20km地点に点在する
ことが分かった。

ドーモンの丘にあるヴェルダン戦争記念館。第一次世界大戦で使われた大砲が展示
されている。

正面には欧州旗を挟んで仏独の国旗が掲げられ両国融和の象徴となっている。
事実この記念館は両国共同で建立された。
 
初めて戦争で使用された仏軍プロペラ機が館内に吊ってある。

当時のポスター。
日本の第2次世界大戦中のポスターと、銃後を守る、もしくは兵士たちが守ろうとしている美しい女性を描いていることが共通している。1915年ごろの服装としては古臭く思えるが、(右の女性などフランス革命当時と言われてもおかしくない)質素さを強調しようとしたのか。後で辞書を引いたらこのポスターは「贅沢は敵だ」的なプロパガンダではなく、銀行の戦債募集のためのもの。


受付のそばに張られていたマジノ線
塹壕のトロッコ見学のポスター。
機会があれば訪れてみたい。


記念館を1時間ほどかけて見学する。今までほとんど知識がなかったので、あらゆる
情報が砂に吸い込む水のように吸収されるようだ。
この戦いから毒ガスが使われたこと(毒ガス用マスクが展示されていた)、軍服のサイズが意外と小さいこと、今は青々と木々が茂るこの森林地帯が見渡す限り焦土となったこと……。展示された軍功者に与えられた勲章・記章がむなしく感じられる。

記念館から遠くに見えていた納骨堂の灯台塔を目標に、戦死者共同墓地へ向かう。
丘一面に広がる白い十字架。遠くに見えるのが灯台塔。一つ一つの墓の前にバラの苗が植えられている。バラが咲くころの景色を見たい気がする。

墓には戦死者の名前、軍の階級、フランスのため死亡とし、そして戦死した年月日が書かれている。

納骨堂、この地下に無名戦士の白骨が収納されている。

灯台塔に上る。モンマルトルほどではないが螺旋階段を延々と登る。
360度の視界には戦場となった丘陵地帯の森林が見渡す限り続く。
この広大な地域すべてが戦場だったとは! 眼下には墓地が……
 
下に降りると、ちょうど映画が始まるという。15分ほどのドキュメンタリーを観た。
1916年10か月続いた攻防戦で仏独両軍合わせて70万人以上の戦死者がでた。
広島・長崎の原爆の死者合わせて20万人と比較してもいかに大きな人的被害だったかという事がわかる。戦場の過酷さに声もない。
自分自身も一兵士として西部戦線に送られたレマルクの「西部戦線異状なし」を読んだのは数十年前だが、同じように戦場で死亡しても自国防衛に勝利して祖国のための名誉の死として国内に埋葬されているフランス兵と比べて、攻撃した方のドイツ兵は敵国の地に葬られているわけだが、どのような墓標が記されているのだろうか。

時計を見るとはや4時をまわっている。このあとドイツ兵墓地に行きたいというS氏と
「とら」、ランス大聖堂は絶対というF女史と「いの」とに意見がわかれるが結局F女史+「いの」連合軍が論戦に勝利。
ドイツ兵の慰霊ができなかったのは残念だったが、訪問前は何も知らなかった仏独
攻防のヴェルダン戦史の鮮烈な印象を胸にし、ランスに向かった。(とら)

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