カルカソンヌ 歴史と城壁

カルカソンヌはヨーロッパ最大の城塞都市、フランスではモンサンミシェルと共にもっとも人気のある観光地である。
53の塔を持つ堅牢な城壁に囲まれており、このように完全に近い形で残っている城塞都市は稀である。

ブドウ畑の向こうに現れる城塞


城壁の外周は約3キロ。皇居が約5キロとのことだから、少し小さい。ここに年間300万人の観光客が来るのだからこれからの夏のハイシーズンは大変だろう。
城内のホテルを予約してあるが、一般の車は城塞の中へは入れない。
城壁の外の駐車場に置き、ホテルの車に迎えに来てもらうシステム。
城壁は二重になっており外側の城壁はフランス王国に併合されてから完璧な防御を
めざして補強されたものだ。


おとぎの国の城のようであるが、その歴史は長く多彩だ。
大西洋と地中海を結ぶ交通上・戦略上の重要な拠点であったこの地にローマが要塞を建設したのは紀元前一世紀、それから400年この地は「ローマの平和」を享受した。
ローマ帝国の崩壊のあと、西ゴート族が300年あまり支配し、要塞を堅牢化した。
突然スペイン方面からサラセン人が攻め入ってきたのは725年、占領期間は短かく、城壁の増強もしなかったが、伝説を残した。シャルルマーニュがこの城を攻めた時城主の夫人カルカスは食糧攻めを行うシャルルマーニュに対して計略を用いる。
一匹だけ残った豚にありったけの穀類を食べさせて、塔の上から投げ落としたのだ。
裂けた豚の腹から未消化の穀類を見つけたフランク軍は包囲を解き、帰途につく。
計略でシャルルマーニュを追い払ったカルカスは勝利のトランペットを吹かせる。
シャルルマーニュにはこの音は聞こえなかったが、聞きつけた従卒が「カルカスが
呼んでいますよ Carcas te sonne 」と報告した。
これがカルカソンヌの名前の由来とのことである。


     城塞への入口ナルボンヌ門

その後、フランク王国支配下にはいるが、シャルルマーニュの死後、帝国は崩壊
する。中世領主トランカヴェル家が現在残るコンタル城を築いたのが12世紀初め。
13世紀アルビジョア十字軍に包囲され、水の手を絶たれ、一週間で降伏した。その後フランス王領となり、1659年のピレネー条約で戦略的地位を失うまで、難攻不落の
城塞であった。19世紀になって、放置され、荒れ果てていた城塞を文化財として保護しようという運動を起こしたのはこの土地出身のメイルヴィエイユだった。
彼の努力はフランス政府を動かし1853年に修復が始まった。そして今日ユネスコ
世界遺産に指定され、在りし日の姿を伝えているのだ。

コンタル城前の広場にあるメルヴィエイユの銅像。まさにカルカソンヌの救い主である。


    コンタル城への跳ね橋


城塞から見たカルカソンヌの下街( ville basse )

下街から見上げる城壁


陽が落ちるとライトアップが始まり、城内に宿を取っている人以外の観光客はいなくなり、静寂が戻ってくる。すると、中世の面影が立ち現れてくる。観光都市として蘇えった現在にあって、2000年を超える歴史を思う。(とら)