チュイルリー公園からコンコルド広場へ

ルーブル宮からチュイルリー公園を抜けて、コンコルド広場、シャンゼリゼを通って凱旋門までは3キロ近くある直線の道だ。星形に道路が広がっているエトワール広場から真直ぐ終点のルーブルはコの字型でこの直線を受け止めている。

実にパリらしい道だし、通ることが多いが、意外とチュルリー公園からコンコルドはじっくり歩いてみることがなかった。
天気の良い秋の初め、リヴォリ通りを横切りルーブル美術館の西の端からチュイルリー公園へ入った。公園とリヴォリ通りを隔てる並木は刈り込まれたマロニエ

園内には多くのブロンズや石像が立っている。

狩りからの帰還 

女 ミュージシャン     女 立像          天馬

横長の公園を西に歩くと次第にコンコルド広場のオベリスクが、そしてその先に
かすかに凱旋門も見えてくる。

マロニエ
には実が。


コンコルド広場は20年の歳月を費やし1775年に完成。
当時はルイ15世広場と呼ばれていた。
1792年革命広場と名を変え、93年ここにギロチンが据えられた。
95年までに1,343名が断頭台に消えた。ルイ16世、マリー・アントワネットジロンド派とロラン夫人、ダントン、そしてロベスピエールジャコバン派一統などなど。
ジャコバン派を粛清し政権を握った総裁政府は、ここの陰惨な記憶を払拭しようと
コンコルド(和合)」広場と改名、今日に至っている。
オベリスクはエジプトのルクソール神殿から運ばれた。巷間言われるナポレオンの
エジプト遠征の戦利品ではなく、1829年エジプトの副王がシャルル10世に贈呈したもの。しかし届いた1833年はルイ・フィリップの7月王政時代だった。

オベリスクを挟んで二つの泉水がある。ちなみにオベリスクをここに設置したのは
ローマ・サンピエトロ広場のマネだそうだ。
向こうに見えるのはマドレーヌ寺院。


陽射しは明るいが街路樹は秋の色だ。

]
地面には栗よりは丸いマロニエの実がいっぱい落ちていた。
枯葉よ〜のパリはあと一カ月くらいだろうか。(いの)