シェーンブルン離宮

シェーンブルン離宮はウィーンの中心から少し離れている。最初に押さえておくべき
観光地なので着いた日の翌日に出かけることにした。しかし、近くにある青空市に行ったり、今晩のオペラにでかけるための美容院の予約、ウィーンの森ツアーの申し込みにツーリスト・インフォメーションに寄ったりしているうちに、出発が大幅に遅れた。

地下鉄に乗って、シェーンブルンの駅に着いたのは
もう10時半。


延々と続く従者の家のような長屋の外側を歩き、チケット売り場に着くと長蛇の列が! ウィーンで行列とは予想もしていなかった。20分ぐらい並べばチケット売り場の中に入れそうだ。しかし先を見ると売り場の中に入ってからカウンターまでの行列はそれまでより長い。売り場が大きい。正面から見た城もバカでかい。

チケットカウンターに着くと城の内部の見学は入場制限をしており1時間待ちだと
言われる。庭園は自由なので、まず庭園を見て時間をつぶすことにする。
しかし、この庭園が広い。
庭園側から見た宮殿。

真向い遥か遠方に展望テラス=グロリエッテがある。果たして1時間で行って
帰ってくることができるのだろうか?

まだ日差しは強い。登り道をせっせと歩く。日陰を歩くと風は冷たい。もう少しだ……

テラスから見た庭園と宮殿。
列をなしていた観光客も広大な庭園にばらけてしまうと米粒のようだ。

あと30分で入場時間、急いで丘を降りる。まだ入場券の料金にふくまれている皇太子の庭園を見なければ。 だがこの庭園はハッキリ言ってたいしたことなかった。

説明もなかったのでいわれも分からない。
つる草に囲まれた回廊が閉鎖的で、
ここを皇太子が歩いたのかなと思った。


やっと宮殿へ入場できた。お昼の時間を過ぎている。ランチは抜きかもと言うと「いの」はチョコレートを買って食べていた。日本語のオーディオガイドが入場料金に含まれていたので借りた。しかし、撮影は禁止。

ハプスブルグ家の夏の離宮だったこの宮殿の展示はふたりの女性を中心として組み立てられていた。ひとりはこの離宮の実質最初の主人であるマリア・テレジア女帝。
もうひとりは19世紀のフランツ・ヨーゼフ皇帝の妻、シシーの愛称で今でも大人気の
后妃エリザベート

マリア・テレジアはハプスブルグ家唯一の女帝で、当時では稀だった恋愛結婚をした夫、フランツ・シュテファンとの間に16人もの子供を産んだ。オーストリア継承戦争にも勝利をおさめ、外交でも娘であるマリア・アントニア(マリー・アントワネット)をブルボン家に嫁がせフランスと同盟、国内でも義務教育の実施、徴兵制度の改革などを成し
遂げ名君といえるだろう。夫が亡くなってからずっと黒い喪服で通したこと、このシェーンブルン宮殿の外装を金にしようと提案した夫に対して、黄色を選んだこと(外壁の色はテレジアン・イエローと呼ばれるそうだ)など質素で愛情深い女性であったようだ。
ウィーン美術史美術館のマリア・テレジアの肖像を見ると、晩年近いものらしく喪服、
太っているが、若い時はほっそりとしていてプロイセンのフリードリヒ2世が是非妻にと望んだのがもっともだと思える美女であった。

かたや、シシーは何故そんなに人気があるのか私には理解できない。
美女ではあったが、どちらかといえば男顔である。若いころ神のように美しいと言われた従弟のバイエルンのルードイッヒ2世と似ている。
その美を保つために髪の手入れとか、美容体操とか多くのの時間と
費用をついやしたらしい。ダイエットもしていたらしく、美女に生まれるのもご苦労様なことである。

一方、公務とか夫への献身とか子弟の教育とかやるべきことはほとんどやってない。息子で王位継承者であるルドルフ皇太子が自殺してから、敬愛するマリア・テレジアにならって喪服で通したということだが、その時は夫フランツ・ヨーゼフは健在なのだから夫の立場はどうなのよと言いたい。

宮殿内には1400以上の部屋があるが、公開されているのは40室だけ。
ロココ調で装飾が施され、壁面は金箔を押した装飾で飾られている。さすがにボヘミア製のクリスタル・ガラスのシャンデリアは美しい。フランツ・ヨーゼフ皇帝が居間や執務室として用いていた部屋、国事に使われる部屋や貴賓室。モーツアルトが御前演奏をした鏡の間、「会議は踊る」の舞台となった大広間。豪華絢爛と説明されているが、
ヴェルサイユやフランスの城と較べると田舎びていて質素。ここからフランスに嫁いだ
もともと贅沢好きだったマリー・アントワネットがフランスのゴージャスさにはじけたのもわかるような気がする。
広い庭園内をまわる馬車がハプスブルグの時代の優雅さを思い起こさせた。(とら)