モンパルナス墓地

秋もたけなわ、木の多い墓地の紅葉は最盛期を迎えている。
アパート真向かいのモンパルナス墓地を再訪した。

この墓地の特徴はバックにモンパルナスタワーが見えること。

モンパルナス墓地に眠る著名人といえば

まず、

サルトルとヴォーボワール



墓は最近磨かれたのだろうか、新しくなったような気がする。
花の代わりの使用済メトロの切符,今日は少ない。

そしてジーン・セバーグ
いまだ人気は衰えず、今日は花が多いようだ

普段のヨーロッパの秋は黄色が多い中、
今年は急に寒くなったためか、赤がめだった。


モンパルナス墓地に興味のある人は前回のブログを見てね。(とら)

http://d.hatena.ne.jp/inotora12/20120527/1338133088
http://d.hatena.ne.jp/inotora12/20120708/1341766561
http://d.hatena.ne.jp/inotora12/20120709/1341854120
http://d.hatena.ne.jp/inotora12/20120717/1342545054

ビストロ・ペンギン

久しぶりにダゲール街で昼飯を、と繰り出す。
そういえばモンパルナスに近い、日替わりメニュ2品で15ユーロぐらいの気に入っていた店があった。
そうそう、この店ペンギン、昔変わらぬ懐かしい店のたたずまい。

迷わず入ったが、すぐに違和感を感じた。

この店違う、インテリアが違う。





ギャルソンに聞くとオーナーが代わり、店は一新したらしい。
オープンキッチンになっておりシェフが6人もいる。
以前は近所の勤め人たちの社員食堂みたいだったのに、すっかり高級店に!

メニューを見ると、3品のコースかアラカルトになっており単価も上昇。

とらは早くも防衛態勢に入る。アラカルト一皿だけにしよう、と。
でもコースメニューはインタレスティング。ちゃんと食べる、と宣言。

昔の店より明らかに高そうなので用心し、ワインは
ハーフもカラフェもないので、グラスにした。
シャブリを(@ € 6)注文して驚く。日本で飲むのとは
段違い。透明でキレがある。食欲モリモリとなる。

ギャルソンのお勧めに従って注文した前菜「アーチチョークの詰め物フォアグラのせ」にビックリ!
実は注文の際は、敬遠すべきフォアグラに気づかなかったのだが、メッチャ旨い!

ナイフを入れて割るとレアでジューシーなハンバーグ(?)が出現。
さっぱりしているのでフォアグラとの相性抜群!

もうケチってはいられない。

コルシカの赤を、フルボトルで注文(€ 32)。
これも辛口でイケる!



とらは前菜に好きなものを見つけ、主菜との二皿にするがあくまでアラカルト戦略は死守。
前菜にサーディンを頼む。なんだよ、缶詰を開けただけかよ、と思ったが食してみると実に旨い!日本で愛用している「竹中食品のサーディン」より塩がうすく、鰯のうまみが感じられる。バゲットをカリッと焼いたもの、サラダ菜の付合せもおしゃれ、帰国してからお客をしたときに使えるのではと、とらはさっそくギャルソンにこの缶詰の出自を教えて、と申し出る。

いのの主菜は、仔牛のローストにジロール茸とジャガイモのソテー添え

丸々とした肉を切り裂く。ほんのりピンク色が食欲をそそりアッという間に完食。

とらの主菜は、スズキの地中海風

デザートは、とらにも食べられるババ。ラムをたっぷり注ぎ二つにカット。

コーヒーは別料金、@ € 2.3。

いのの三皿コースは € 38。
とらはアラカルト二皿で € 37。
絶対コースの方がお得でした。
しかし勘定は前より大幅アップ。でも味もアップしたからいいか。

こちらへ来て初めて流石フランス!という旨いものを食し大満足でした。(いの)

Augustin-Bistrot
79 rue Daguerre 75014
01-4321-9229

ショパコンの興奮さめやらず、一方やはり食事はパリ

パリに戻った翌朝、さっそくカフェ・ランデブーで朝食、ワルシャワのスタバよりは断然いい。卵3つの目玉焼きを食べたので、昼は抜いて夜13区の中華インペリアル
ショワジーへ。スープ、スズキの葱ショウガ蒸し、豆腐と野菜の炒めものをとる。以前と変わらぬ安定した味だ。

翌日はバスでオペラの京子食品へ買い出し、「鈴豆腐」や醤油などを買う。
帰りにレンヌのビオマルシェがやっていたのでバスを途中下車、サラダ野菜と花を
買う。これで自炊体制OK。

夜はユーチューブでショパコン受賞者コンサートを見る。
7時からの中継で、すぐ演奏かと思ったら、延々と関係者の挨拶が続く。
ステージにはピアノはない。8時過ぎにやっと授賞式、入賞者5人(ロシア人は体調不良で欠席)以外のファイナリストはカジュアルな恰好だ。
これはピアノを弾かないからだと類推する。

チョ・ソンジンへの金メダルは今年5月に選ばれたばかりのドゥダ大統領から

大統領のスピーチもけっこう長い。

難民問題とか政治向きの話題ではなくショパンとピアノと今回のコンクールについて語っているのだろうが、日本の政治家で文化の話題でこの長さを持たせられる人はいないのでは…… 文化に強いといわれたあの人なら「感動した!」一言かな……

ここで休憩。
9時過ぎから優勝者以外の入賞者4人の演奏、と思ったが、またまた挨拶、司会者がみなさん演奏はもう少し我慢してね的なことを言っている。
最初が最年少のトニー・ヤン、それから4位のエリック・ルー、マズルカ賞もとった
ケート・リウはマズルカを弾いた。2位のアムランが終わるともう10時を廻っていた。








ここでまたまた休憩。
このブレークに優勝者発表の時の映像が流れた。


優勝者はワルシャワ・フィルとの競演でコンチェルト。
チョ・ソンジンは決勝の時の緊張が解けて自信を持って弾いている。決勝の時の
必死の表情を覚えているが、おそらく生涯で2度とあのような顔で弾くことはないだろう、と思うとこれから世界に羽ばたいていくアーティストの貴重な瞬間を共有できた
ことを嬉しく思う。ホントに思い切って出かけてきて良かった。


ユーチューブ観戦はなかなか便利であるが、音と映像がずれているのが困る。


コンチェルト1番終了、スタンディングオペレーション、拍手鳴りやまず、アンコールとなる。ポロネーズ賞も受賞したチョは軍隊ポロネーズを弾く。これも素晴らしい演奏。またまたスタンディング・オペレーション、しかしもう時間は12時15分前。まだ地下鉄とか動いていたのだろうか?

この間こちらはスピーチや休憩の時間でハムサラダを作り、食べ、湯豆腐を作り、
食べる。マルシェで買った骨付きモモから切り出してもらったハム、新鮮なサラダ、
トマト……おいしい。持参した昆布を入れ、ボルビック水を入れ、鈴豆腐を浮かべ電熱器のスイッチを入れる。絶妙の茹で加減でできあがり、柚子胡椒と醤油で食べる。久しぶりの日本の味、おいしい。鈴豆腐は日本のスーパーで売っている豆腐より
はるかに美味しい。その後は免税店で買って来たウィスキーをサンペレで割って
飲みながら5時間に及ぶ実況を全部観た。(とら)

その後ネットでパリでのショパコン優勝者の凱旋公演が行われると知った。
11月7日、まだパリにいる。韓流追っかけおばさんになってきた気がし始めたが
さっそく会場であるサル・ガヴォーへ行ってチケットを入手。翌日のブログ見てね。

ポーランド後記

ワルシャワ滞在中の書き残したことをいくつか記しポーランド編の最終
としたい。

ー ショパン命日のミサ10月17日(土) 雨 −
この日のショパコンはお休みで、ショパンの心臓が安置されている
聖十字架教会で追悼ミサがあった。
整理券が出ているとか、2時間前から列ができている、とか事前に
いろいろな情報が飛び交っていたが、並んで座るか、立ち見か、
並ぶのは得意でないわれわれは開始時間8時の15分前に行った。

行列は解消されていたが、教会の中は満員電車並の混雑

この日演奏されたモーツアルトのレクイエムは、ショパンのパリでの
葬儀で演奏されたもの。
荘厳な演奏と美しい合唱が始まるが、音しか聞こえない。
満員電車と同じように時間がたつとそこそこの周りにスペースが確保され、
伸びあがるとちょっとだけ前が見える。ポーランド人男性は背が高いので非常に
邪魔である。
なんといってもショパンの命日にショパンの心臓が安置されている教会での演奏
という最高の舞台装置。
雰囲気のせいか涙が込み上げてくる。1時間ほどの演奏が終わると、
足はガタガタ、咽はカラカラ、急いでビールを飲みに向かった。(とら)

ー ワジェンキ公園 −
ショパコン・マンガ「ピアノの森」の主人公カイ少年が心の安定を求めて
コンクール中しばしば訪れる場所である。ショパンの森と呼ばれていた。
5年まえ最初に来た時も行きたいと思ったが、2010年の滞在は短く
そのうえものすごく寒かったので機会を逸した。
今回もほとんど雨でダメかと思ったがワルシャワ滞在最終日午前中薄日がさした。

入り口から始まる並木道

池のまわり

森の中へ

初秋

この公園はショパン像があることで有名

白バラは最後の花

りすがちょろちょろと出てくる

人懐こく、逃げない


ワジェンキ公園のすぐ隣のロシア大使館前には

ポーランド人民にごめんなさいをする
ブレジネフ像があった

そんなわけないか…… (とら)

ー 英語放送 ー
このアパートのケーブルТVには英語放送が二つあった。
CNN、BBCやアルジャジーラではない。
DW(Deutche Welle)とRТ(Russia Today)だ。
なにせこれらを発見したのはパッキングを完了し空港行のタクシーを待つ少しの間、時間潰しにチャンネル・サーフィンをしていた時偶然見つけたのだからあまり大きな
ことは言えないのだが面白いので紹介すると;

DWはCNNに似た世界ニュース(シリア難民問題からフィリピンの台風の被害まで)のあとに、ミャンマーあたりでの、ブリキでの手作り太陽光集光装置によるエコ発電のレポートだった。
一方RTはカルザイ元大統領との衛星インタビューで、世界最強の米軍がこれだけ
長期間戦ってもタリバンを屈服させられないのはナゼ?とのテーマでアメリカ批判。
番組予告では Watching the Egle (イーグル=鷹=米国の紋章)というタイトルで反米プロパガンダを張っていた。
参考; www.rt.com

ドイツとロシアがポーランドなどの中欧で電波合戦をしていることを初めて知ったが、その両国の姿勢が放送内容に表れており興味深かった。
そういえばNHKの国際放送が茶の湯や生け花、おもてなし、などという生ぬるい
放送しかしていないことをふと思い出した。(いの)

さよならワルシャワ
次は5年後に来ます。(とら)

ワルシャワ観光

ワルシャワ滞在中はほとんどが曇りか雨で、日照時間は滞在中累計で5〜6時間
程度だったろうか。
ショパコン午前の部終了はだいたい14時半近くになる。
朝からも雨が上がり、このチャンスに、と急いで戻り革靴を運動靴に履き替え旧市街へと向かう。
中央駅近くのアパートからコンサートホールの裏手を抜け旧市街へのとば口までは20分ほど。

まずポーランド科学アカデミーを背景にしたコペルニクス像。
彼は古都クラクフ出身なのにワルシャワで顕彰されているのはなぜか、
語るまでもないだろう。

その先にあるのが聖十字架教会。
ショパンの心臓が本堂手前の石柱の下に埋葬されたことで有名だ。

この通りはワルシャワで一番カフェやピザなどの軽食店が軒を
並べている人通りの多いところだ。
通りを歩く大半が観光客だが、周辺には大学等が散在し若者も
多く見かける。

しばらく行くと右手に懐かしのホテル・ブリストルが。
5年前のショパコンではこのホテルから通った。

その隣に隣接するのが大統領官邸。ライオン像と武装兵士で守られている。
19世紀初頭のワルシャワ公国時代はラジヴィウ宮殿と称し、ショパン11歳の時の演奏会はここで開かれた。

そして旧市街入り口の広場に至る。ワルシャワ一番の観光スポットだ。

広場の中央から睥睨するのはジグムント3世像。

17世紀初頭首都をクラクフからワルシャワへ遷都した王様だ。
この国は古くからゲルマン、バルト、スラブなどからの流入による
摩擦からか、12世紀頃から内戦が続き、分裂・統合を繰り返した
あげく18世紀にロシア、プロイセンオーストリアの周辺三強国に
より分割され国家は消滅する。

フランス革命ナポレオン戦争と続く激動の時代にポーランドプロイセンから独立しワルシャワ公国となる。ショパンが生まれたのはこの頃。ナポレオン失脚後ロシア
帝国の支配が強まる中、1831年11月のワルシャワ蜂起でポーランドは真の独立を求めるが、ロシア軍に鎮圧され、逆にロシアに併合された。この間フランスで音楽活動をしていたショパンは一度も帰国すること叶わず、若くしてパリで客死する。
このあたりの時代背景が、ショパンのピアノへ祖国へのパッションを吹き込んでいる。

城壁の一部や

17世紀に造られた王宮などが並び

旧市街の街並みへと入っていく。

この石畳を含め、全てが当時のものではなく先の大戦後に再建されたものだ
ということに驚く。
 この国は第一次大戦後の1918年共和国として再建されたのもつかの間、1939年ナチ独軍の侵攻を受けドイツ、
ソビエトにより東西に分割され再度国家は消滅。

ソ連占領地区からは100万人がシベリアへ抑留されたとか。カチンの森虐殺事件もこの頃起こった。
余談だがこの国はユダヤ人に比較的寛容であったため当時ユダヤ人は300万人を超えていた。それが災いしたのだろうか、その90%がナチにより殺された。この時代の犠牲者のスケールはソ連も含め膨大なものでありため息しか出ない。

第二次大戦末期ソビエト赤軍ワルシャワに迫ると、それに呼応すべく市民の武装蜂起が起こるがドイツ軍に弾圧され失敗に終わる。この時の犠牲者は当時の人口の1/4、20万人といわれる。鎮圧後徹底した町の破壊は続き、市民は強制移住させられ、終戦時の人口は数千人だったという悲惨さである。

観光客が来ない旧市街の裏側、普通の住宅地へとの境目あたりに当時の惨状を
伝える建物がひっそりと残されていた。
ポーランド銀行の残骸。1941年独軍空爆と44年の蜂起により破壊される。
]
1944年9月との銘板が貼られている

横手の壁の多くの弾痕が生々しい。

王宮脇の眺望台から眼下望む。この道路の先にヴィスワ川が流れている。
その対岸まで赤軍は迫っていたのにドイツ軍の蜂起鎮圧を見ていただけだった。
ワルシャワ市民の無念さに想いがいく。

なおこの旧市街の再建は1971年にやっと始まる。それまでソ連が許さなかった
のだ。当時残されていた資料や写真をもとに、できるだけの瓦礫、残骸を使い3年かけて復元した、その執念もまた日本人にはない凄さを感じる。(いの)

追記) ポーランド語で書かれた文字から意味の類推は不可能だという点では
アラビア語やハングル文字といい勝負である。また英語も通じない。
ある時食料品店で自分と同年代とおぼしき店主に英語でモノを尋ねたが通じない。再度ドイツ語で話しかけたら激しい言葉(もちろんサッパリ分からないが)で怒られた。ドイツ語がいけなかったようだ。
ここに歴史を感じた。ドイツへはいい記憶がない。
一方戦後衛星国として事実上ソ連の配下であったポーランド人民共和国が、ワレサの連帯蜂起を経て、1989年ポーランド共和国へと真の独立を果たすまで敵性英語を学ぶ機会はあまりなかったと思う。そのためか中年以降の人とはほどんど会話が成り立たなかったのは残念である。

ワルシャワお食事事情

食べ物の話しかないと一部読者に不評な「いのとら日記」だが、今回ワルシャワ
ではほとんど取り上げなかった。
というのは、ワルシャワは食べ物がまずいのだ。
5年前のポーランド行でそれを痛感してのキッチン付きアパートとなったのだが、良い食材が手に入らない。
ハム、ソーセージ、チーズは種類は豊富だがパリの品質とは比べようがない。
野菜もバラエティがなく、サラダの葉っぱは固い。
市場や東洋系食品店に買い出しにいく暇がなかったこともあるが、大手スーパー・
カルフールや近所の食料品店では料理しようと思うような食材は見当たらなかった。ステーキ用の肉さえ見当たらず、魚介類はタラ系と思われる魚の冷凍ぐらいだ。

しかしアパートの近くに遅くまでやっている食料品店が5〜6軒はあり,水と,これだけは豊富な種類を誇るビールを買う分には不自由はない。
そしてとても安い! 

最初に行ったのはアパートの大家推薦のポーランド料理店

まずはスープ2種類 見た目よりは薄味

いのは鹿肉のグーラッシュ

メニューに「狩猟したシカ」と
あった。そうではない鹿とは?
と尋ねたが会話不成立


ペリメニのホワイトソース掛けとハムの方が多いサラダ
このホワイトソースが全てを台無しに

自炊はこんな感じ
一袋5個入り100円ぐらいのアンティーブと挽肉のスープ

テイクアウト中心の日は
イワシの酢漬けとサラダの盛り合せ

鶏モモ焼きとニョッキ

その日の夜の鶏手羽の水炊き風は不評
でも翌日このスープを使った雑炊は合格

日本から持ってきた本格的レトルト・インドカレー3種類
平皿しかないのでコーヒーカップで代用

電子レンジであたためたパックご飯、
最初は持参のジャコをかけて

こちらではワインよりビール

まあまあだった外食は両方ともチェーン店
SPHINX ステーキチェーン店 日本でいえばガストか

しかし安い。

Tボーンステーキ500gと
ビール、ワインで約4000円


Batida カフェとレストランの中間のような店 日本でいえば資生堂パーラー

日曜日のブランチは

ビールとワインを飲んでもやはり同じ4000円ぐらい



韓国と中華には夕食一回づつ行ったが標準はクリアしていた。
それぞれ飲み物を入れて7〜9千円と、ワルシャワとしては高いが日本と較べれば
そこそこのお値段。

しかし一番気に入り滞在中3回も行ったのはここ!
コンサート前の朝食に愛用

日本のスタバは好きでなくドトールを愛好しているが、なぜかワルシャワのスタバのアメリカンコーヒーはおいしい。
それにサンドイッチもグッド。温めてくれる

しかし、値段は安いとはいえない。
アメリカンとカプチーノ、サンドイッチ2つで1500円ぐらい。



ところで、昨日ショパコンの結果がでた。
最終日20日の夜10時過ぎに発表という予定だったが、実際には伸びにのびて
翌21日の午前0時45分。
優勝は、とらいち押しのチョ・ソンジン、彼はポロネーズ賞も受賞した。
2位のアムランがソナタ賞、3位のケイト・リュウマズルカ賞をそれぞれ受賞。
コンチェルト賞は該当者なし。
前回2010年第16回優勝者 ユリアンナ・アヴデーエワ(ロシア)と、2位タイの
ルーカス・ゲニューシャス(リトアニア)をあまり評価しなかったとらとしては
今回は納得の結果であり満足!(とら)

ショパンコンクール会場風景


地下鉄中央駅前広場。
(クリックすれば大きく見ることができます)
皆さん足早でわき目もふらず突進して行く。
東京駅の雑踏と較べてもそのスピードは早い。
ここから会場のワルシャワ・フィルハーモニック・ホールまで徒歩5分。

ショパンとおぼしき像と国旗が並ぶ。
ポーランド以外の国の国旗は日によって変わるがこの日は日本が中央。

扉を押し開け中に入り、当日券を求める人たちのを掻き分け、

ゲートの係員にチケットを見せて中二階へ進む。


メイン会場のある2階の広間。
昼はカジュアルが多い。
夜は少しだけドレスアップした人が増えるが正装はかえって浮く。

演者と曲目の紹介。カメラはここまで。

3次予選は各人約一時間の演奏。二人演じて休憩に入る。
我々の席は、初日は画面中央で人々が談笑している右手付近、
2日めは上階の画面左奥、三日目は下の左奥のドンづまりだった。

昼時の休憩は大混雑。画面右奥はサンドイッチやケーキを求める人だかり。
一番手前の行列は男子トイレに並ぶ男たち。
男女共にトイレの数が絶対的に少ない。とらは拍手鳴りやまぬ内に脱兎のごとく飛び出していく。団塊世代は競争に強いようだ。
いのは約5時間辛抱する。コツは朝から水分控えめにすること。

休憩の合間、ピアノの調律に余念がないヤマハの日本人。

こちらはカワイ。

今回は他にスタンウエイ、ファツィオリの4台から選ぶことができる。
ベーゼンドルファーは弾き手がいなかったのか。

審査員席は上階の最前列とその後ろの2段に8人づつ。

ちっと見にくいけど最前列左端がダン・タイ・ソン

その隣にアルゲリッチ海老彰子
手前は今回初参加の第8回優勝者
オールセン。

アルゲリッチは演奏者に興味をなくすとやたらにダンや海老に話しかける。
ダンはいい加減にあしらうが、エビは丁寧に対応していた。
どうでもいいが、休憩時でもダンの机はきれいだ。
几帳面に書類はすべてカバンに入れていく。
パリ在住のご婦人二人は次のスコアシートを置いたままだった。

最後の写真は審査員席から見た舞台の風景です。(いの)

もうひとつおまけ。コンクールの歴史の展示の写真の中から発見!

1960年の優勝者、ポリーニ! 若い!(とら)